承認欲求の発露としての自動車、GT-Rのありかた
2016.06.30
ニュルブルクリンク周辺の旅で、とあるテーマが話題となりました。それは「承認欲求」です。
承認欲求 - Wikipedia人間は他者を認識する能力を身につけ、社会生活を営んでいくうちに、「誰かから認められたい」という感情を抱くようになる場合が多い。この感情の総称を承認欲求という。
さてyoutuberであるジェットダイスケさんはyoutubeの再生回数、ブログでいえばPVがこの承認欲求につながりやすいと分析しています。広く知られるジェットさんですが、本人はむしろ再生回数は追い求めず、むしろ見ず知らずの人がリアルでヤジを投げてきたり、Skypeで時間問わずコールしてきたりと有名になると大変なことが多いとのこと。
ウケるコンテンツよりも、自分がやりたいことだけをレビューするスタンスは変えてない、だから後輩たちの方が再生回数多いよね、ワハハ、と笑い飛ばすのが気持ちいいです。
承認欲求としての自動車
youtubeの再生回数やブログのPV同様、自動車をもつことはこの承認欲求のひとつの発露と言えます。それはいわゆるステータス、経済的余裕の表れであったり、デザイン性の高い車を選ぶことでファッション的要素も加味されます。
わかりやすいのが価格。高級車がステータスとなるのはこれが理由です。
次に高性能っぷり。いわゆる0-400mや0-100km/h加速の性能は数値で表すことができ、絶対比較が可能です。
点から線、面へ
R35となりスカイラインGT-Rではなく日産GT-Rと名乗り、世界のスーパースポーツマーケットに参入したときに、必要だったのは分かりやすい数値。それが0-100km/hのタイムだったり、ニュルブルクリンクのタイムだったのです。
もともとR32やR33 GT-Rでもニュルブルクリングは走っており、それはどちらかというと内向き、つまり、R33はR32よりも21秒も進歩したんだよ、という成長記録でした。
しかしニュルブルクリンクが、まるで日本の筑波サーキットのように多くのメーカーや車種が走るようになると、自然とそれが「競争」となってきます。そのためターゲットタイムが設定され、あのクルマよりも速くてしかも安い、だからコストパフォーマンスがよい、という説得力をもたせるためでした。
これはこれで、ある時期まではよいでしょう。しかしサーキット、しかも特定のコースのタイムだけ追い求めるといいことはありません。というのは市販車はレースカーではなく、「乗用車」であるからです。
快適性とタイムは反比例します。GT-Rが基準車でタイムアタックしたのはあくまでもR35の成長記録、イヤーモデルとして毎年進化していますよ、ということの証でした。
しかしそれも続ければ続けるとどうしても限界が来てしまいます。乗り心地とタイムを両立することは、究極を求めていくうちに離れて行ってしまうからです。
それゆえ、R35 GT-Rもここ最近はニュルのラップタイムを求めていません。
そろそろしんどいでしょ。GT-R開発責任者・田村さんと行く、ドイツ・ニュルブルクリンクの旅【2】【ワンダードライビング】
タイム、つまりそれは点でしかなく、その点と点の間は伝わらないからです。
私が昨今のホンダ・タイプRを評価できないのは、ライバルを負かそうとするあまり、ニュルのラップタイムだけにこだわっているように感じるからです。サーキットを走っているひとならすぐにわかると思いますが、ラップタイムなんて水物で、そのときの気温や路面温度、天気などで数秒かわるのが当たり前。それが20kmを超えるロングコースなのですから、ここで数秒早くても遅くても、何を意味するのかサッパリわかりません。
どうせ比較したい、相手を負かしたいというのなら、同じ場所、同じ時間に、よーいどんするしかないのです。それがレースです。
タイムアタックというのはあくまでも自分との闘い、成長記録でしか過ぎません。
評価軸を内側にもてるか
承認欲求は人間の欲求として自然なものです。しかし他者に認められたい、とするあまりに行き過ぎは自分も不幸だし、他人も迷惑です。
youtubeの再生回数やブログのPVを追い求めれば、すぐに旬なネタや、嘘大げさ、行き過ぎた正義感による批判などいわゆる「炎上ネタ」に飛びつくのが一番です。しかし本当にそれが自分のしたい表現だったのでしょうか?
自動車も同じです。
スポーツカーなのだから一番速いクルマがいい、というのはわかります。しかしそれが行き過ぎて乗り心地が悪く、同乗者に嫌われるのも正直「しんどい」のです。
例えば自動車との対話、自分の運転技術向上、ハンドリングを楽しむこと。これはなかなか数値には表すことはできません、いや、こうやって文章や言葉にすることも難しいのです。ステアを数ミリ入れたときの車の動き、ロールのかかりかた、ノーズの入り方、そのタイムラグ、すべてを感じ取って操作すること。これが無上の楽しみ、というのはなかなか伝わりにくいです。
ややもすると目的地にいかに早く、安く、楽につくか、ばかりもてはやされる人工知能社会。その議論はバスやタクシーの運転手に求めるものであって、我々ドライバーとは根本的に違うものです。
ドライビングを楽しむものとして、なにをもってヨシとするか。
タイムや価格など、数値で他人から認められることよりも、自分でこれがいいと決められること。評価の軸を内側にもって、自分が認めること。それが大事なのではないかと思います。それこそが「自ら由しとする」、つまり数値、承認欲求からの呪縛から解放され、自由になれるということでしょう。