旅客と貨物の違い:乗り物文化を体感するドイツ旅行(8)
2013.08.16 寄稿者: のま (元記事)馬と牛車の違いといったらいいのでしょうか。元々エンジンつきの乗り物が馬、牛の代替として使われることからその運命はきまっていたのですが、乗り物の目的は大きく分けて2つ、移動と運搬にあります。
移動、つまり人が目的地に到達することが第一目標です。
運搬、これは目的地へ物資を運ぶことが第一目標です。
何が違うのでしょう? それは速度に対する考え方です。
移動は速くなれば速くなるほど時間が短くなるので良いに決まっています。一方運搬は速度が速くなることも大事ですが、同時に安全であること、大量かつ安価に運搬できることを重んじます。速度と比例して荷崩れなどの危険性は高まるため、速度に対するニーズが低く、さらに何時までに到着すればいい、となるとやみくもに速くいく必要もありません。
これが移動と運搬の違いです。
これを他の言葉で言いかえると、「旅客」と「貨物」の違いです。
で日本の自動車交通の大きな問題は、この「旅客」と「貨物」をごっちゃにしている点です。つまり人貨がいっしょくたで、荷崩れしないように遅く走ることがヨシとされてます。何かの時点で自動車交通はこの「旅客」と「貨物」をごっちゃにした、もしくは「貨物」優先としたようです。
というのも、もうひとつの大きな交通、鉄道はきちんとこれを理解、分離しているからです。国鉄からJRに変わった時、分割されて名称が変更になりました。それは
JR東日本旅客鉄道株式会社など6社とJR貨物です。
旅客と貨物を明確に分けたことで明らかなように、JR東日本をはじめ旅客各社は新幹線で高速移動を実現しています。新幹線においては当然速ければ速いほどよい、とされているのは明確な事実で、はては500km/hを出すリニアモーターカーが控えています。そして旅行者も新幹線に乗る場合、こだまよりもひかり、ひかりよりものぞみ、といったように目的地に速く到達することを望んでいることからも明らか。
それにも関わらず、自動車交通はなぜか「旅客」と「貨物」がごっちゃで、どちらかといえば「貨物」優先です。
これは戦後の高度経済成長における、産業優先の道路作りに由来しています。とはいえ当時はトラック輸送は限定的であり、まだまだ鉄道貨物が華やかなりし時代。では本当のトラック輸送が脚光を浴びるのはいつでしょう?
それがJIT、ジャストインタイムです。
トヨタのカンバン方式という名前でも有名なJITは、コンビニの発達とともに伸びてきました。コンビニはそれまでの店舗と違い、在庫をほとんどもたず、陳列棚のみの店舗構造です。売れた商品はすべて本店で管理され、売れた分だけトラックで運ぶために1日に何回でもトラックがきて商品を納入します。これが鉄道による貨物を殺し、トラック輸送優勢の時代を築いたのです。
自動車に高い税金をあれこれとかけていますが、その目的は道路を作るため。いわゆる受益者負担の考えかたです。ところがこれで主に受益したのは産業界。安くトラック輸送ができる上小回りが利くのでどんどんと鉄道を駆逐していったわけです。ですから端的にいうと、道路はトラックのために作られているといっても過言ではありません。移動のための自家用車のことは二の次三の次、蛇足みたいなものです。
そうなってくると何が問題かというと、例えばドイツのように移動、旅客用自動車がニュルによって鍛えられたのとは対照的に、トラック、トレーラーといった貨物、運搬を最優先した道路、さらには速度制限のために低く抑えられているうちに自動車が移動という本来の目的を忘れはじめたのです。
自動車という、本来「人の移動」のためのものが、「人貨」いっしょくたい、いや人間を貨物として運搬する貨物車になってしまったのです。これを簡単な事象でいうと、
「セダン離れ」
です。セダンは人を運ぶ自動車ですが、ミニバンやコンパクト、軽自動車といった5ドア形状はすべて貨物車の現れ、あくまでも人貨を運ぶためのクルマ。中の人間が荷崩れしないよう、ゆっくり走り、一番の課題は積載量であり、コスト、燃費です。トラックと同じ観点だと思いませんか。
さて自動車がトラック化するとどんな問題が起きるか。それはドライバーに対する影響です。
ドライバーは認知、判断、操作を行うもの、と教習所でも習うし警察の免許更新の際の教習本にもそのように書いてありますが、その根底はドライバー自身に主体性があるべきと言っています。主体性があるから責任が伴います。
ところがこの主体性がゆらぎます。というのもトラック化することでドライバーが従属的、受動的になるからで判断を自分ではなく他者に委ねます。トラックドライバーはプロドライバーでたいていはトラック会社に勤め、言われたとおりに仕事をこなすことを求められます。トラック化したドライバーも同じく、自分でハンドルを握っていつつも、誰かから、たいては家族の指示に応じて目的地に人貨を届けるという仕事をこなすことが目的となり、だんだんと能動性を失っていくのです。
その証拠にこれまでは我先にと車線変更をして前へ前へと出ていたのが、最近では前のクルマに並んで1車線だけずっと並んでいくという光景が多く見受けられます。これは車線変更をしてまで前に出たいと思わない、面倒くさい、前についていけばいつかは着くだろう、という精神から来ています。だから危険を察知する能力、認知がだんだんと失われていきます。
この従属精神は人だけではありません。機械に対しても従属的になってきています。最近流行している自動ブレーキ、これがそうです。本来ブレーキを操作するのはドライバーの責務。もちろん機械自体は補助的な位置づけですが、ドライバーのマインドが逆になっており、自動ブレーキがついているから安心、と考えています。
機械に頼り切っている証拠です。
安全は本来ドライバーが確保するもので、機械がやるものではありません。考え違いもはなはだしい、ということです。とはいえ、そのように思わせる広告宣伝もいけません。
かくして日本は自動ブレーキを装備したスバルの売れ行きは好調、軽自動車にも自動ブレーキがつく時代到来です。自動ブレーキ技術自体はVOLVOもVWもBENZも持っているわけで、この技術自体になんら問題はないのですが、ドライバーの主体性を吹っ飛ばしてこれですから、世も末。
しかしこの従属精神は日本ならでは。
そもそも日本は主体性や自主性よりも、協調性、団体行動を重んじる文化。自分で責任をとるというよりも、団体責任です。それになにより仕えるという文化で、多くの庶民はお殿様、お代官様に従属するという形態を長らくとってきたわけです。いわゆるお上の言うとおりという奴ですね。お上にすべてを委ねるかわりに、責任もとらない、という精神性です。
一方ヨーロッパはそうではありません。主体性をもち、個人個人の意見を明確にもって、意思をはっきり伝える。そんなヨーロッパ人がハンドルを握って自分で認知、判断、操作をするというのは非常に親和性が高いです。人生のハンドルを自分で握るわけですから、自動車のハンドルも自分で握ります。
ところが日本人の場合、人生すらも敷かれたレールの上を走りたいお役所文化、安定指向ですから、レールを踏み外すことを恐れます。そんなマインドで自分でハンドルを握って自由自在に移動しようというのはどだい相反しています。本当は誰かに指示をしてもらって、その通りにしたいのです。
レールといえば、鉄道です。
だから日本人に本来向いているのは、自動車を運転することではなく、電車に乗ることです。だから電車網の発達した都会の人がクルマより電車の方が便利で経済的、といってクルマ離れするのはごくごく自然、当然のことで、「若者のクルマ離れが深刻」と憂慮する問題では本来ないのです。
ところが地方ではそうはいきません。なにせ一時流行した路面電車、東京もそうですがこれをとっぱらって全部自動車用の道路に置き換えてしまったわけですから。バスに乗るか、自動車にのるかしか選択肢がないわけです。かくして従属的なマインドをもちつつも、仕方なく免許をとり、自動車に乗ることになります。
自動車用の道路といいつつも、その本来の目的はJIT用トラックのためのものなので、トラック以外の交通を排除します。それが路面電車であり、自転車です。自転車は排除というよりも、もとから交通の中でまったく配慮されていない、無視されていたといってもいいでしょう。だから現在の法律も、実際の運用形態も不整合だらけで、危険きわまりないです。
道路が発達していくことで、自動車が普及してどうなったかというと、コンビニとショッピングセンターにクルマでいく、郊外型開発が進み、ロードサイド文化が華やかになったという経緯です。
このロードサイドに行くための足としてのクルマ、当然もともとトラック用に考えられた道路なのでコーナーもなく直線+交差点+信号だけで構成されます。コーナリング性能は要求されず、ただストップ&ゴーの繰り返し。車本来の性能がまったく要求されません。ニュルなんて不要なのです。
この道路事情に合わせて作られるのが日本車なのです。ですから今の日本車がつまらない、魅力がないというのはそもそも道路に面白みがない、多様性がない、性能を要求されないからです。まさに軽自動車で十分です。ガラパゴスです、このグローバル化の社会、TPPにあって日本独自規格の軽自動車が、理想の日本車なのです。
今の日本車に要求されるのは5つドアがあって、燃費がよく、自動ブレーキがついているかどうか。だいたいそれがすべてといっても過言ではないでしょう。
そんな日本の道路と日本車、そして日本人の基本的な従属マインド。ドイツと比較して結論としては
「日本人は自動車の運転に向いてない」
でした。
余りに衝撃的な結論に自ら驚きつつ、日本の、日本車の世界的役割はないのか、文化発信はないのか考えてみます。
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