歴史と都市化への理解を深める父子旅 Day4 函館・五稜郭
2016.09.16大沼にキャンプをはり、この日は函館観光へ。キャンプは移動しながらだと大変なので連泊できるのが楽ですが、特にこのキャンプ場は無料なので気楽です。
五稜郭
函館といえば五稜郭が有名。
西洋風の城ですが、実際には箱館奉行所の内陸部への移転に伴い作られた防護用の土塁・堀といった位置づけで、平城にあるような天守閣や生活用の御殿などはありません。そのため城の防御力もさほどなく、そういったことからも箱館戦争で劣勢を強いられた側面があるでしょう。
みどころは最近再建された箱館奉行所。まだ一部だそうで、今後さらに拡張していくことを予定しているのだとか。当時と同じ技法を使い、木造で再建されているだけに資料価値は高いです。
その箱館奉行所のそばにちょんとおいてある大砲。実はこれ、実際の箱館戦争で活躍した戦艦に搭載されていた本物。あまりにさりげなく、子供がのって遊びそうなくらいの気さくさでおいてあります。
明治維新当時、大砲を載せた戦艦は移動砲台、海をいく城といってもいい存在で、もともと幕府が発注した戦艦、開陽丸を榎本武揚がのっとり、ここ箱館にきて蝦夷共和国をぶちあげたわけです。強力
な軍事力を背景に独立を宣言するわけですが、不幸なことにこの開陽丸が座礁し撃沈。
一方の明治政府(いわゆる勝てば官軍)は幕府に引き渡した戦艦を、天皇から勅命をうけた正当な後継者として譲渡、これをもって征伐にきます。これが箱館戦争。
箱館奉行所はもともと函館山のふもと、ロープウェイ乗り場のそばにあったものの、ペリーの黒船の脅威から海からの砲撃を避けるために五稜郭へ移転したという経緯です。
そのかわりに函館山の麓に砲台、弁天台場を作っているのですがそれが逆に狙われ、孤立したために応援するために土方歳三は五稜郭から出たところで銃弾に倒れて絶命しています。
ここで重要なのは五稜郭と台場との距離。自転車で走り回りましたが数キロあり、これを移動するのはかなりの時間が必要です。また箱館はいうなれば大きな砂州であり、海からの砲撃もあるため危険にさらされることは自明。
そういったことから暗殺説もあり、士気が低く、統制もとれなかったという指摘もあります。
お昼ご飯は五稜郭タワーそばにあったラッキーピエロのハンバーガー。
摩周丸
時代は過ぎて昭和へ。レンタサイクルを利用して海岸線をひた走り、青函連絡船・摩周丸へと向かいました。
海沿いは港、そしてJRの引込み線、操車場となっておりまさに物流のハブという様相。
そしてその先にあるのが青函連絡船・摩周丸。
この場所になぜ青函連絡船があるかというと、それは当然のことながら、引込み線がそのまま船へと続いているからです。つまりターミナル駅と港がセットになっていました。
自動車フェリーと違うのは、自動車が自由に移動できるのに対し、鉄道はレールによって場所が制限されるので、レールの行き先に港を作る必要があるのです。
とはいえ函館駅はターミナル駅として作られているため、この青函連絡船とは目と鼻の先。これは青森駅もそうです。もし東京に連絡線があったとしたら、おそらく品川駅にこういった船が直付けされたことでしょう。
船内は船、というよりもまさにザ・国鉄といった内装と設計。什器も当時のJNRのそれであり、船であっても鉄道という風体です。
残念ながら車両甲板などは見学できませんでしたが、これは青森の記念館・八甲田丸で見られるということを後で知りました。
戦前戦後を通し、昭和の発展の影にこの青函連絡船があったことや、台風による海難事故、戦中はアメリカ軍の攻撃による沈没など厳しい歴史があり考えさせられます。
その後のモータリゼーションの発達により、青函連絡船も自動車を運ぶことになりますが、時代は完全に鉄道から自動車へシフトしたことの証左。
車両甲板はレールがあるため、自動車は暴露甲板の上に搭載。風雨に晒されるなど、運用には問題があったことが想像できます。貨物は鉄道が前提なので、当然乗用車のみの対応です。(自動車用)フェリーと(鉄道)連絡線の違いについて、よく理解ができました。
その後貨物はトラック便にシフト、青函トンネルが開通したことにより連絡線はその役割を終えるのも時代の流れですね。
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